映えない

人生が映えない人間は写真も映えない

起きながら見る悪夢

 最近マッチングアプリは全然やっていないのだが、マッチングアプリにまつわる怖い話を聞いてしまって、やっぱりマッチングアプリなどやらんほうがいい、と頑なに誓う今日この頃である。

 はてなブログなどを見ていると、世の中の人たちは当たり前のように恋人を作って当たり前のように結婚して当たり前のように子供を育てたりしていて、それはまあやっぱり何度も言うように当たり前のことなのだろうけど、自分にとっては「1試合にサイクルヒット2回決める」ぐらい難しい。

 映画やドラマを観ていると、みんな恋をして悩んだりうまくいったり結婚したり不倫したり不倫されたりしているし、なんなら映画やドラマじゃなくても著名人が付き合ったり別れたり不倫したりしている。

 でも42歳の自分はそういった場所から果てしなく圏外にいて、まあ恋人がいないなんてのは珍しくもなんともないのだけど、学生の頃の「モテないなあ」みたいなのとはまた違うゾーンに入ってしまったよなあ、という気がしているのである。

 ではどういうゾーンなのかというと、それはもうステージを降りたというか、グラウンドから去ったというか、ユニフォームを脱いだというか。

 しかしそもそも、よく考えたらステージで朗々と歌った記憶はないし、グラウンドでホームランを打った記憶もないし、なんなら三振しかした覚えがない気もする。一度死球で歩いたぐらいだろうか。そもそもユニフォーム着てた?俺。入団した?みたいな話だ。

 自分は早く結婚しないだろうな、とは思っていたし、ずっと独身かもなあとは思っていた。結婚願望もなかった。しかしそのとき想像していた独身像と今の現実の独身像にはかなりの隔たりがある。悪い意味で。

 20代やそこらのときは「モテない」嘆きというのもまた一つの青春として昇華できていた気がする。「モテない」が一種のアイデンティティとして機能していた時期があった。でもある時期(その時期を特定するのは難しいが)から、「モテない」「恋人がいない」はアイデンティティではなく、ただの「未成熟の証」になってしまった。

 もちろん「恋人がいない」人がすべて未成熟な人間だなどとは思わない。自分の場合は、という前提で書いている。例えば僕は滅多に人のことを好きにならない。理想が高いのかというとちょっと違う気はするのだが、とにかく滅多に好きにならない。ここ数年考えているのは、この「滅多に他人を好きにならない」という点に自分の未成熟さ、幼児性が現れているのではないかということ。

 年を経るにつれて「みんな愛されスキルばかりじゃなくて愛するスキル磨き始めたなあ」と思うようになった。自分は「どうしてそんなに人のことをすぐ好きになれるの?」と思ってしまうのだが、彼彼女からしたら「どうしてそんなに誰のことも愛せないの?」という具合なのかもしれない。

 わりと近年知り合いになった男性がやはり自分と同じ「愛せない」人なのを見て「選り好みしすぎじゃね」と思ったのだけど、自分だってそうじゃないかと思い「ああー」と、夜中にうめいてしまった。なぜ夜中に起きると、過去の失言とか恥ずかしい行動を思い出してしまうのだろう。

 もう今は書いても恥ずかしくないから書くけど、15年ぐらい前に岐阜に住んでいる女の子を好きになったことがあった。以前彼女は上京していて、バイト仲間として知り合って好きになったのだ。

 細かいことは省くけど、彼女が実家に帰ってからも忘れられなかった自分は、連絡をとって岐阜まで東京から遊びに行くことにした。一度目のデートはうまくいった。彼女は当時付き合っていた男に浮気をされて弱っていて、言ってしまえば僕はそこに付け込もうとしたのだ。

 でも僕は一度目のデートで強く押しきれなかった。そして二度目のデートのとき、彼女の気持ちは(おそらく)彼氏のほうに完全に戻っていた。もちろんそれは彼女の態度にも出ていた。服は一度目のときとは打って変わってラフなものになっていたし、一緒にいてもつまらなそうだった。

 僕は焦りながら「海に行こう」と提案したが、彼女の返答ははっきりしなかった。ここは多少強引に…と思って「とにかく行こう」と言った結果「えー、もういいよほんとに」とあからさまにめんどくさそうに彼女が言った。そんな不機嫌な表情は見たことがなかったので激しくうろたえた。

 夜に食事に行けば「(体の距離が)近い」と言われた。もう完全に脈がないことを認めたくなかったけど、そのときになってようやく気付いた。そしてむやみに体の距離を近付けてしまった自分の不気味さにいたたまれなくなってしまい、もう二度と会うことはないだろうなと思いながら彼女と別れ、帰りの新幹線に乗った。新幹線では隣の席に座った女性が僕の酒臭さに辟易とした表情を浮かべていた。

 と話がかなりそれたが、夜中にこういうことをふと思い出して「ああ、本当にセンスがないし人の気持ちがわからないんだなあ俺は」と痛感する。酒の席とかで面白おかしくネタにして笑い話にしてもきたけど、やっぱり致命的にかっこ悪い。

 そのような致命的なセンスのなさを払拭することはできるのか、というと、これは果てしなく難しいのではないか。人はよく「そんなの誰にでもあることだよ」と言うし、実際誰にでもよくあることなんだろう。でも夜中にこういうことを反芻し、こうしてブログに書いてしまうあたりは「誰にでもよくある」センスではないような気もする。

 才能のある人間はこうした体験を小説や脚本にして作品とし、「私の気持ち悪い過去」をマスに対して集合知として差し出し「苦い、でもわかるよ、君はそんなに間違ってもない、ひとりじゃないよ」といった一種の赦しとして提供できる。でもそんなことができない人は「忘れる」か「夜中に目覚めてうめく」のどちらかに辿り着く。後者だった場合、もう一度眠るまでにしばらく時間がかかる。なぜか思い出さなくてもいいほかの苦い経験まで胃液みたいに喉もとまでせり上がってくる。それは起きながら見る悪夢である。