映えない

人生が映えない人間は写真も映えない

It’s Only the End of the World

f:id:q050351:20230207074431j:image

早朝に目が覚めて眠れないので適当に(いつも適当だけど)。

最近、インスタでフォローしてる人の赤ん坊の写真やストーリーが上がると見入ってしまう。

40半ばも近くなって「そろそろ子孫を…」と本能が訴えかけてきてるのかなと思うけど、残念ながらその期待には応えられそうにない。

まあ子供を育てるのって外から見てるのとは大違いでめちゃくちゃ大変だろうし、そもそもこんな世の中に生まれる人たちの将来ってどうなんだろうとは思う。高齢化、少子化、没落していく日本、おまけに世界情勢はきな臭くなってきた。

子をもうける機会もないのに考えてしまうことがあって、それは「こんな世の中(その頃は今よりもっと世の中が悲惨になっている)になるってことはだいたいわかってたはずなのになぜ自分は生まれたのか」と責められるイメージだ。

とはいえ、だから子供なんか作るべきではない、と言い切るのも何かおかしい。しかし世の中がこれから良い方向に向かうとは自分はとても思えない。

SNSで子供たちを見るたびに「この子たちの将来は…」と考えてしまう日々である。

校長の話

f:id:q050351:20230207013913j:image

さっき、あるエッセイを読んでいて思い出したんだけど、学生時代の定番だった「校長の話」って不思議なぐらい記憶にない。

「校長の話」っていうのは「退屈」の代名詞みたいなものになってるわけだが、全国にあれだけ多くの校長がいるんだから、たまには面白い話をする人がいてもいいのにと思う。

でも自分の12年ばかりの学生生活で「これは面白かったなあ」とか「いいこと言うなあ」みたいに思った校長の話はひとつもない。

こうなると「校長の話は退屈でなくてはいけない」というルールがあるのではないかとすら思ってしまう。そう考えると少し気の毒ではある。

そもそも校長たちはどんな思いで、あの退屈な話をしていたのだろうか。「どうせ聞いてないだろうけど、こういう話をしなくちゃいけないんで」なのか「自分ではいい話だと思っているのだがみんな聞いていないな」なのか。

よくあることだが、校長の話の途中に貧血で倒れるやつがいた。当時は「あ〜、まただ」みたいな感じで特に気にもしなかったけど、打ちどころが悪ければ大怪我につながるし、そういう意味では「校長の話」は一種の児童虐待といった色彩を帯びることすらあるわけだ。

とここまで書いてきて思ったのだが、今でも「校長の話」というのはしっかりあるのだろうか。そしてやはり、それは皆退屈な話なのだろうか。

I got no time to lose

X-T5 + SIGMA 18-50mm F2.8 DC DN (ISO500 50mm f/2.8 1/220秒)

白髪を染めたので日曜の夜まで頭を洗えないしワックスとかも付けられない。だから明日はどこにも出かけない。天気がいいので鎌倉にでも行こうかと思っていたんだけど。でも鎌倉もマンネリなんだよなあ。

上の写真はピントの確認もせず適当に撮ったやつ。本当はヨコ構図。なんかスマホLightroomのほうがいい感じに仕上がる気がするんだけど、気がするだけだろうか。

最近はNewJeansの"Ditto"ばかり聴いている。ほかのNewJeansの曲はそこまでハマらないんだけど、これは好き。


www.youtube.com