映えない

人生が映えない人間は写真も映えない

『トニー滝谷』という映画

トニー滝谷』という映画がある。

原作は村上春樹の短編小説で、『レキシントンの幽霊』という短編集に収録されている。

主人公の名前はトニー滝谷で、この一風変わった名前は、彼の父親が世話になったアメリカ人の大佐が付けたものだ。

父親はジャズマンで家を空けることが多く、母親はすでに死んでいたので、トニー滝谷は基本的には1人で暮らすようになる。特に寂しいとも思わなかった。それは彼にとってごく当たり前の生活だったのだ。

トニー滝谷は機械の精細な絵を描くのが好きで、大人になるとそれを仕事にするようになった。売れっ子になった彼はある日、激しい恋に落ちる。彼の事務所にやってきた、出版社のアルバイトの女の子だ。彼女は22歳で、トニー滝谷より15歳も若かった。取り立てて美人というわけではなかったのだが、トニー滝谷は彼女の服の着こなしに注意を引かれる。

彼女はまるで遠い世界へと飛び立つ鳥が特別な風を身にまとうように、とても自然にとても優美に服をまとっていた。

それまで何人かの女とつきあってきたものの結婚を考えたことは一度もなかったトニー滝谷だが、彼はそのアルバイトの女の子とデートを重ね、思い切って結婚を申し込む。

彼女が考えている間、トニー滝谷は苦しむ。

孤独が突然重圧となって彼を押さえつけ、苦悶させた。孤独とは牢獄のようなものだと彼は思った。

結果的に娘はトニー滝谷を受け入れ、2人は結婚する。こうしてトニー滝谷の人生の孤独な時期は終了した。

孤独ではないということは、彼にとっていささか奇妙な状況であった。孤独でなくなったことによって、もう一度孤独になったらどうしようという恐怖につきまとわれることになったからだ。ときどきそのことを思うと、彼は冷汗が出るくらい怖くなった。

しかし3カ月も経つとそういう恐怖は薄らぎ、トニー滝谷は穏やかな幸せの中に浸れるようになる。

トニー滝谷と妻が、トニー滝谷の父親の演奏を聴きに行く機会があった。その音楽はなぜか、トニー滝谷が記憶しているかつての父の音楽とは少し違っているようだった。彼にはその違いが重要なことであるように思えたが、父親に「いったい何が違うんだ」と問いかけることはしなかった。

2人の結婚生活は順調だったが、1つ気になることがあった。それは妻があまりにも服を買いすぎることだった。部屋をまるごとひとつ衣装部屋にしなければならないほどなのだ。

経済的な余裕はあったから、金の面では特に気にしなかった。でも服の数を勘定してみると、毎日2度着替えをしても全部の服を着こなすのに2年ほどかかることがわかった。トニー滝谷は妻に提案する。「必要なものを買うのはいっこうに構わないし、君が綺麗になるのは嬉しい。でもこんなに沢山の高価な服が必要なんだろうか」。

妻は悩んだが、夫の言うことは正論だと思ったので、服を買うことをやめると誓う。そして行きつけのブティックに、買った服を返しにいく。だがその帰り道、彼女は事故死してしまう。家には彼女の大量の服が残される。

葬儀の10日後、トニー滝谷は新聞に女性アシスタントを募集する広告を出す。そして面接を受けにやってきた中から、死んだ妻ともっとも近い体型の20代半ばの女性を選んだ。

トニー滝谷は仕事の内容を軽く説明してから、こう切り出す。

ひとつだけ条件がある。実は私は妻を亡くしたばかりで、妻の服が家に非常に沢山残っている。そのほとんどは新品かあるいは新品同様である。それをここで働くあいだ制服のかわりにあなたに着てほしい。だから服のサイズと靴のサイズと身長を採用の条件につけたのだ。これはおそらく奇妙な話に聞こえると思う。あなたはこれはちょっと胡散臭い話だと思うに違いない。それは自分にもよくわかっている。でも自分には何の他意もない。ただ妻がいなくなってしまったという事実に慣れるのに時間がかかるだけなのだ。つまり私はまわりの空気の圧力のようなものを少しずつ調整していかなくてはならないのだ。そういう期間が自分には必要なのだ。そのあいだあなたに妻の服を着て近くにいてほしい。そうすれば、自分にも妻が死んでいなくなったということが実感としてつかめるはずだから。

女は実際に胡散臭いとは思いながらもトニー滝谷の「条件」を受け入れる。

結末までは書いていないけど、途中まではこういう話。映画ではトニー滝谷イッセー尾形、妻と妻の服を着ることになる女を宮沢りえが1人2役で演じている。ナレーターは、のちに同じ村上春樹原作の『ドライブ・マイ・カー』で主演を務めることになる西島秀俊だ。監督はCMディレクターを経て映画監督になった市川準。撮影は本来写真家の広川泰士が手がけた。

ある程度引いて観ると、映画の出来にはちょっと微妙なところもあると思う。例えば死んだ妻の元恋人がトニー滝谷と会ってどうこう、という映画オリジナルのくだりは完全に蛇足だし、トニー滝谷の大学時代までイッセー尾形がヅラかぶって演じているのもコントみたいだ。

でも、原作が先立ったか映画が先だったか忘れたけど、レンタルDVDか何かでこの作品を観た自分(30歳にもなってなかったかも)はしこたま打ちのめされてしまった。そのあと、メイキング映像がたっぷり入ったプレミアム・エディションのDVDを買ったほどだった。

でも何がどう響いたのかは、今もよくわかっていない。最初に観た当時は「孤独でなくなったことによって、また孤独になることが怖くなる」という部分に感じるものがあったのかもしれないが、今思えばそれは表層的な要素で、この作品の本質ではないという気がする。

・結婚して幸せになったトニー滝谷に、なぜ父親の演奏が以前と違ったように聞こえるのか
・妻の服に対する異常といってもいい執着は何なのか

このあたりにヒントがあるようにも思うが、明確な答えはないのかもしれない。

映画オリジナル、というか映画だからこその良さが出ているなと思うのは、トニー滝谷の家のセットだと思う。普通のセットやロケではなく、横浜に舞台装置のようなセットを建てて撮影しているのだ。そのため、普通の家ではこんな画にはならないぞというショットがあるのだが、そのことがかえって村上春樹の小説特有の空気感を醸し出している。広川泰士の撮影も、いわゆる映画専門の撮影監督のものとは異質で素晴らしい。

坂本龍一が書いたシンプルな音楽も良い。テーマ曲といっていい「Solitude」という曲を坂本龍一は「わかりやすい話だから簡単に書けるんですよ」と半ば小馬鹿にしたような風に説明していたけど(そのわりには村上春樹に『BTTB』のライナーノーツとか書いてもらってるんだよなあ)。

長尺の「DNA」もいい。

どういうわけか、この映画は50歳になっても60歳になってもタイミングを見つけて観る気がする。このお話が意味していることが何なのか、みたいなことよりも、50になっても60になっても観てしまいそうな映画を見つけた、ということが、当時の自分にとっては衝撃的だったのかもしれない。