映えない

人生が映えない人間は写真も映えない

人生で一番素敵なこと

X100V

『映画を早送りで観る人たち』という新書を読んでいる。

まだ読んでいる途中なのだが、早送りをして観る背景がいくつか説明される中で以下のような記述がある。

彼らは回り道を嫌う。膨大な時間を費やして何百本、何千本もの作品を観て、読んで、たくさんのハズレを掴まされて、そのなかで鑑賞力が磨かれ、博識になり、やがて生涯の傑作に出会い、かつその分野のエキスパートになる――というプロセスを、決して踏みたがらない。

1978年生まれの自分からすると「音楽も映画もサブスクですぐ手に入れられる世の中は便利だけど、昔みたいに迷って迷って1枚のアルバムを買うとか、最初は全然理解できなかったアルバムをもったいないから聴いてたらすごくハマったとか、10代のとき全然好きじゃなかった映画があとで好きになるとか、そういう感覚を得られないのかあ」とか思ってしまうわけだけど、まあコスパ重視の人たちからすれば年寄りの戯言なのだろう。

この本ではドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」についても触れられている。実はこの本を読み始めた頃から「坂元裕二が脚本を書いたドラマが視聴率をいまいち取れないのって、こういう『映画を早送りで観る』ような人たちが増えているからかもな」と思っていたので、少し驚いた。

同時期放映のドラマの中では頭ひとつ抜けて絶賛されていた。マシンガンのような早口会話が炸裂する一方、本当に大事なことは誰ひとり、何ひとつ直接的なセリフでは発さない。暗喩や寓意、本当の心情とは逆の発言、あるいは大事なくだりをあえて描かないことで、視聴者にことの重大さを知らしめる高等テクニックがてんこ盛り。
(中略)
要は、倍速視聴や10秒飛ばしや話飛ばしには、まったく向かない作品だったのだ。
そのこととの関連性は不明だが、同作は評価の高さに反して視聴率で苦戦した。
(中略)
絶大な高評価に視聴率が追い付いていない理由として、「内容が難解」を挙げる分析記事がいくつか散見されたことは、ここに付記しておく。

映画やドラマにおいて「登場人物にあえて本心をしゃべらせない」みたいなのはよくあるテクニックのはずだが、それをやると「わかりにくい」と言われてしまう。

というか個人的な意見としては、坂元裕二の脚本が「難解」というのも不思議な話だ。坂元裕二の脚本は「浅くはない」が決して「わかりにくい」ことはないと思う。むしろ「ちょっと登場人物にしゃべらせすぎでは」とすら感じることだってある。坂元裕二本人もスタッフも「本当はこれはちょっとしゃべらせすぎなんだけど、今の人に合わせるためにギリギリこれぐらいは譲歩しとくか」と妥協してるんじゃないかと思うぐらいだが、それでも「難解」になってしまうらしい。そしてもちろん、これは「大事なことはちゃんと言葉にして伝えないといけない」とかそういう次元の話ではない。

というようなことを考えていたら、その坂元裕二が脚本を書いているドラマ「初恋の悪魔」に以下のようなセリフが出てきてまたも驚いた。

「人生で一番素敵なことは、遠回りすることだよ」

なんというタイムリーさ。特に意識してやってきたわけじゃないけど結果的には遠回りばかりしている自分からしてみれば「こういうのでいいんだよ、こういうので」と思えるセリフだった。