この本に関するツイートを見かけて、筋書きがちょっと気になったので買ってきた。
どういう話かというと、井の頭線とか中央線にわらわらいそうな“若干意識高い系サブカル男子”の“僕”と、彼が一目惚れした「LINEよりも手紙が似合いそうだし、パスタよりも蕎麦のほうが似合いそうでエロい」“彼女”の恋物語。
そして第一志望“群”だった印刷会社に就職しクリエイティブな仕事をしたいと願うも、ままならない現実に疲弊して大人になっていく“僕”とその友人・尚人のあがきも描かれている。
で読んでみたところ、確かにそこそこ面白かった。“ままならない現実に〜”の部分はわりとどうでもよくてけっこう読み飛ばしたし、尚人との関わりとかもあんまり興味が持てなかったけど、“僕”が“蕎麦が似合うエロい女”に溺れていくさまはなかなか引き込まれる。
なんせ買ってきて2日ぐらいで読んでしまったから「面白かった」には違いない。でもこの小説を読んでいて、どうにも引っかかる部分が自分にはあり、それはどういった点なのか挙げてみたい。たぶん「なぜ引っかかるのか」という理由はわからないのだが。
この感覚をどれぐらいの人に共有してもらえるのかはわからないけど、作中に頻発するポップカルチャーの固有名詞。そこに違和感を覚える。例えばキリンジの「エイリアンズ」。くるりの「ハイウェイ」。
あとフジロックに関する会話が出てくるんだけど、
「俺も行けばよかったなあ。今年、フランツ出るし、ウルフルズ復活アツいし、OK GOもストライプスも見たかったし、テナーも、フジだと気合いが違いそうじゃん? 電気グルーヴも、生で見たかったんだよなあ」
悶絶する。
なぜだろう。自分もフジロックには10回以上行ってるし、ここに挙がっているバンドも(ストレイ)テナー以外はそこそこ好き。でもこの会話文はなぜかすごくきついものがある。「きつい」ということがどういうことかわからないだろうから説明を試みると、「微妙な羞恥心が頭をもたげる」ということだろうか。
作者は人気Webライターのようだし、こうして小説が売れてるんだから才能のある人だというのはわかるんだけど、この小説の「ポップカルチャー固有名詞」の洪水には共感性羞恥のような感情が湧いてくる。フジロックのくだりの会話、こんなに固有名詞出さなくても成立する気がするのだが、敢えて出してくるあたりに作者の「俺のプレイリスト開陳」感を勝手に感じ取ってしまい、なぜかつらい気持ちになるのである。本当に勝手な話なんだけど。そもそも共感性羞恥っておかしいけど。作者は別に恥ずかしいとは思ってないだろうから。
とはいえこのよくわからない「つらい気持ち」を感じたのはこの小説に限った話ではない。朝井リョウの『桐島、部活やめるってよ』でも、同じような”勝手な共感性羞恥”に襲われた。そのときは確か、登場人物である映画部の連中が『ジョゼと虎と魚たち』の話をするくだりだったと思うが(映画は大好きなのだけど原作は何度読んでも途中で挫折する)、「まあ俺も『ジョゼ』は好きな映画だけど、こうやって小説にこんなふうに出てくるとなんでこんなに微妙な気持ちになるんだろう」と感じた。映画版でこの設定を「ゾンビ映画」に変更した吉田大八の判断は極めて賢明だったように思える。
前日したフジロックの箇所もそうだけど、「その情報要る?」という疑問がやはり違和感の正体なのだろうか。そんなことを考えていたのだけど、作者のインタビューを読んだら、
次は、今作で多用していた音楽や地名の固有名詞はできるだけ省いて、登場人物も自分とかけ離れた小説を書きたい
とあった(個人的には、地名は別に固有名詞使ってもいいと思うけど…)。
ここでは、なぜ「固有名詞はできるだけ省きたい」のかという理由は説明されていない。直前に「情報を盛り込みすぎる」とあるから「よく考えたら曲名とかバンド名要らなくね?」と本人も思ったのかもしれない。
結局何を言いたいのかわからなくなってきた。“パスタより蕎麦が似合うエロい女”が良かったからそれだけでいいじゃない、とは思うんだけど。
あと今泉力哉がこの小説を褒めてたけど、いかにも好きそうだ。たぶん映画化は近いな。主人公は仲野太賀とか若葉竜也になるんだろうか。蕎麦エロ女のキャスティングが難しい。