映えない

人生が映えない人間は写真も映えない

今日マチ子さんの原画展に

行ってきました。

今日マチ子さんは女優の京マチ子さんとは全然関係ない、漫画家の方です。

以前ある大手レコード屋の書籍コーナーで働いていたときに今日さんの『センネン画報』という作品集を扱ったことが、彼女に興味を持ったきっかけでした。

『センネン画報』に収められているのは、主に高校生の少女と少年の、何気ない一コマを切り取ったものです。セリフはなくキャラクターの名前もわからないし、少女と少年、あるいは少女とまた別の少女の関係性も明らかにされません。つきあっているのか、つきあう寸前なのか、ただの友達なのか。

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物語性のようなものはあまりなく、余白が多いので、想像しつつ、想像しすぎない程度に読んでいると、いつの間にか自分が高校生に戻ったような気がしてきます。そして、ただ叙情的なだけではなく、ちょっとした毒のようなものを感じることもあります。

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今回の原画展は、増補改訂版『センネン画報 +10 years』の発売を記念したもの。というかもう今日さんのイラストを最初に目にしてから10年が経つんだ、という不思議な気持ち。

実は僕が最初に買った今日さんの作品は『センネン画報』ではなく『みかこさん』という作品。

こちらはセリフもありますしモノローグのようなものもあります。途中で登場人物たちの恋模様もわりと明確に描写されます。ちなみに『みかこさん』は自分の住んでいる場所の近く、多摩川駅あたりが舞台になっていることもあり、余計に感情移入してしまいました。全巻買って、最終巻の発売時のサイン会にも行ったほどです(ちなみに、サインの横に添えるイラストはみかこさんの友達のナオちゃんをリクエストしました)。

今日さんはこのほかにも戦争をテーマにした『COCOON』などいろいろな作品を発表されているのですが、頭の中身が高校生のときから進歩していない自分にとってやはり一番思い入れが強いのは『みかこさん』、そして今回ようやく手にした『センネン画報(+10 years)』と言えるでしょう。一番好きなのは、原画展でも飾られていた「貧血」です。

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こちらでは「大人になれない、あなたへ。」というまさに自分にどんぴしゃな見出しのインタビューが掲載されています。

自分の中の少女や少年を持て余している方など、お手にとってみてはいかがでしょうか。

センネン画報 +10 years

センネン画報 +10 years

 

 

 

トイレに設置された無駄にでかい鏡、いい歳こいたおっさんの下ネタ話

仕事で六本木を訪れた際ガストに立ち寄った。トイレに行くとでかい鏡がある。スタバとかファミレスにはこういうでかい鏡があるが、なんのためにあそこまで鏡がでかいのかさっぱりわからない。

下品な話になるのだが、男性がパンツを下ろしたときに自分の性器が丸映りになるぐらいでかい鏡なのである。あいにく僕にはでかい鏡に映った自分の性器を見て恍惚とする、というような性癖はないので、ただただ気味が悪い。ファミレスとかスタバにこんなサイズの鏡が必要なのだろうか。

閑話休題

ここまでこんなことを書いておいてなんだが、今年40になろうとしている僕には心がけたいことがある。それは、あまりあからさまな下ネタを人前で話さないということ。女性がいる場はもちろん、男だけの場でもある。

明確な理由はないのだが、いい歳をした大人が下ネタを嬉しそうに話している姿は醜い、と最近思ったからである。

もちろんこれは人によりけり。例えばリリー・フランキーあたりが話していると下ネタも何やらカラッとしていていやらしさがないような気がする。でも僕をはじめそんじょそこらの平凡なおっさんが話す下ネタは本当にただただ下品なだけで、惨めである(と、自分は思う)。

こういうことを言うと友人などは「気取ってんじゃねえ」みたいな反応をするわけだが、本当にダサいと思う。いい歳こいたおっさんの下ネタって。それはセクハラとかMeTooとかそういうのとはまた違った領域の話だという気がする。

別にエロい妄想はするべきでないとかそういうことを言っているわけではない。ただ、そういうことを口に出すのはなんだか間抜けだと思うだけである。世のおっさんたちがそれぞれの性生活、アブノーマルな性癖を楽しむのは自由である。でもそれを言葉にするのはなんか違うんじゃないか。そんなふうに思ってしまうのであった。

それにしても、やっぱりガストのトイレの鏡があんなにでかい必要はないはずである。

↓先週観た映画『ファントム・スレッド』のサントラのApple Musicウィジェットを貼り付ける。この映画を観ている間、僕の頭の中ではずっと「へ…変態だー!」というAAがフワフワワウワウと浮かんでいた。でも監督が「どうですか旦那、変態ですよ!あなたも好きですね」と嬉しそうに語っているわけではないので下品さはない。むしろ格調高い映像と音楽で楽しませてくれるので、さながら変態紳士という感じである。これでも褒めている。

絶滅すべきでしょうか

 もう写真を全然上げてないんですけど、写欲沸かないんですよね正直。カメラ持って外出て「あっなんかよさげ」と思って撮っても「しょーもな…」と思ってすぐ消去。いや、これまでこのブログとかに上げてきた写真も全部しょーもないものだったのかもしれないけど、少なくとも自己満足ぐらいはできてたんですよね。他人様から見てどんだけゴミのような写真でも、自分としてはそこそこ好きだった。最近はそれすらない。ゴミ量産機です。カメラがじゃなくて、自分が。

 さて、惨めな婚活の話でもしますか。って、婚活でもないのかな。まあそれなりにいろんなところに出かけていって出会い(うっ、こっぱずかしいこのフレーズ)を探している自分なのですが、まあ出会えない出会えない。自分は就職活動らしい就職活動をしなかった(のに今正社員やれてるのは幸運なのかもしれないが)んですが、みんなこんな気持ちだったのかなと。

 最近思うんですけど、自分と同じように街コンだのアプリ(自分はやってないけど)だの婚活サイト(これも自分はやってないけど)だのでたくさんの人と会って、最終的に結婚した人の話とか聞いてると、実はその人たちって街コンだのアプリだの婚活サイトだので会った人とゴールインしたわけじゃないってケースが多いんですよね。街コンだのアプリだの婚活サイトだので疲弊しきって「もういいや…」となってたところ、友人の紹介とかで知り合った人にピーンときて結婚、みたいなパターンばっかり。ある程度歳を取ったら能動的に動かなきゃいかん!とか言いつつ、結局その能動的に動いた場所では相手が見つかってないっていう。

 そもそも自分が結婚したいのかってことをよーく考えたら、なんかそれはちょっと違うんじゃないかっていう。失恋の結果、次の恋だ!→次の恋ってことはもういい歳だし結婚だな!みたいな、結局失恋を引きずっての結婚願望っていうバカみたいなモチベーションしか持ってないんだなと。で、そんな人に恋人なんか見つかるわけないよなあ、さもしい顔してんだろうなあと思い始めた次第。

 それにしても、世の中の人たちってすごいですよね。自分が好きになった人間が自分を好きになるって、それ都市伝説でしょ?としか思えない。今の自分には(まあもちろん、世のカップルの何割かは“妥協の産物”なのだろうけど)。高校のときとかはいとも簡単にそんな関係が成立していたのに今はできない。その理由は、きっと自分が成熟した大人じゃないからなんだろうなと思ったり。頭の中身が高校生のままだからなあ。

 失恋する前は一人で平気だったし、シングルライフを謳歌してたのにな。きつかった仕事にも慣れて、それなりに遊べるお金もまあまああるのに、どうして今更「また恋がしたいぜよ」とか思ってしまったのだろうか。なんて恥ずかしい人生なんだろう…。絶滅すべきでしょうか。